抹茶くまの書き散らし

抹茶アイスが好きっくま。

ジャスコを遠く離れて。

九州の地元の元ジャスコ(現イオン)を久しぶりに訪れた
 
入ったらすぐに介護用品、歩行杖、健康食品が並び、客層をうかがわせる
 
店内には、もうクリスマスソングが流れていた
 
店に入れば、小学生の頃の感動が波のように込み上げてくると思ってた
 
自分の街にはないゲーセン、本屋、ゲームも売ってるおもちゃ屋、フードコート、ペコちゃんのほっぺみたいなお菓子がうまいケーキ屋
 
だけど、そんな感情は微塵も湧かなかった
 
やっぱ客は老人ばっかだな、とか、イートインスペースできたなとか、ゲーセン意外に親子連れで遊ぶんだなとか、仕事で市場調査でもしてるみたいな目で眺めてる俺がいた
 
店内レイアウトは俺が知ってるものとはすっかり変わっていて、俺のしょぼい記憶力では、もともとどこに何があったのか、うまく対応させることができなかった
 
ただ、見慣れない、古臭い、俺の知ってるイオンの出来損ないみたいな店がそこにはあった
 
かつてジャスコに行くってだけでときめいた
 
もしかしたらばあちゃんにゲーム買ってもらえるかもしれない、もし無理でもゲーセンで遊べる、店は広くてデパートみたいに何でもあると思ってた
 
でも、俺は成長したし、店も変わった、ジャスコですらなくなった
 
唯一、ゲーセンと、おもちゃ屋だけはサイズは小さくなったけど、昔と同じ位置にあった
その近くにあった本屋は1階に移ってた
 
おもちゃコーナーで、もはや何代目かわからない派手な仮面ライダーのおもちゃや曇ったショーケースに収められたゲームソフトを見てたら、なんだか泣きたくなってきた
 
いろんなことがあったんだよな、この場所で、と思った
 
弟と俺がおもちゃを物色して、ゲーセンで遊んでる間、母親は本屋で、ばあちゃんは服売ってるところで待ってた
 
目当てのおもちゃが見つかると、ばあちゃんを探して店内を走り回った
 
あれは何歳の頃だろう
 
楽しかったと思う、きっとすごく
 
いつからああいうことがなくなったんだろう
 
何回も何回も、この場所でときめきが、嬉しいことがあったはずなのに、そういう具体的な断片は何も思い出せない
 
ただ、なんかそういうことがあった気がする、懐かしい気がする、という気分があるだけだった
 
ばあちゃんも、もうだいぶ前に亡くなってしまった
 
そういうことを思っていると、急に寂しいのか、悲しいのか、わからない気持ちになった
 
今の気持ちを誰かにわかってほしいと思った
 
記憶を俺と同じ目線で共有できるのはたぶん弟しかいないわけだけど
 
あそこにあれがあったよな、ゲーセンの機械揺らして警報鳴ったよな、とか
 
老人たちが何時間も延々と昔話をする理由がわかった気がする
 
思い出は、記憶という形でしか残らない
 
人も死ぬし、ジャスコも変わる、当たり前すぎるけど、ずっと同じものなんてありはしない
 
だから、その時、その瞬間、その空気を、同じ気分で受け取った誰かと、記憶を確かめ合うことでしか、僕らはそれを再現できない
 
なんて儚いんだろうって思う
 
自分の記憶が勘違いだって言われたら、それに反論する術なんてないじゃないか
 
なんて不確かなんだろう
 
僕らは、あまりに脆い思い出の土壌の上に立って、今日も僕として生きている
 
僕の中身も元ジャスコのようなものかもしれない
ペコちゃんのほっぺみたいなお菓子がうまいケーキ屋をつまみ出して、くだらないギフトコーナーなんかを入れてしまったかもしれない

夏の終わりのセクキャバにおけるガチ恋

最近セクキャバにハマっている。
セクキャバをご存知だろうか。きっとご存知だろう。
パイパイちゅっちゅできるところである。

そういうと、おっパブと呼んだ方がわかりやすい気もするが、別に絶対条件として「パイパイ」を「ちゅっちゅ」せねばならぬ訳ではない。
パイパイならぬものをちゅっちゅしてもよいし、そもそもちゅっちゅせぬもよし(ただ、下の方は話が違ってくるのでちゅっちゅされぬがよし)。

なんで、今さらそんなものにハマるのだ?という話なのだが、そもそも私はセクキャバはもとより、キャバクラ否定派である。

なぜか?「俺、昨日キャバ行ってきたんだけどさぁ」「最近さぁ、○○の▲▲ちゃんに入れ込んでてさぁ」と、喫煙所や男同士の飲み会の開始2分くらいの会話に使えてしまうユースフル感、カジュアル感、イージー感が気に食わない。

益荒男ならば、堂々と「今朝午前休とって、五反田の痴女性感フェチ倶楽部でドライオーガズムかましてきたぜ」くらいのことをマネージャーミーティングのアイスブレークあたりで開口一番ぶち込み、午後の眠気に襲われるハゲ上司に冷や水ぶちかますべきではないか。

少なくとも、俺はこれまで(ドライオーガズムはまだ道半ばだし、)(あくまでマインド面で、という話ではあるにせよ、)そういう主義でやってきた。

しかし、しかしである。

ハマってしまった。どっぷりと、セクキャバ沼に。
ドライも、オーガも、ズムもなき世界に降り立ってしまったのである。

物語は「はじめまして、マリアです」の出会いから始まり、
「やだ、入り口まで送りますよ?」の別れで終わる。

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日曜日の昼下がり、通りで見かけた「新学期シーズン!!新”乳”生教育Days 18時まで5,000円」の謳い文句にまんまと釣られ、私は雑居ビルの地下へと階段を下った。

茶髪ロン毛、銀縁メガネの黒服が現れ、俺にリステリンを促す。俺はモンダミン派なのに。

黒服にハイボールをオーダーし、右手側にあるカーテンをめくると、そこは夜であった。

真っ暗な店内に、大きなスクリーンが1つあり、そこにはレディー・ガガとかスティービーワンダーとか(たぶん違う)、そういう系の外人のちょいエロ風PVが流れている。だが、店内にかかる音楽はなぜかスキマスイッチとか懐かし系のJポップだった。

俺は店の一番奥のブースに通される。なんかずいぶん開放的な漫画喫茶の個室スペースみたいなそんな空間だった。
個室に入り、おしぼりで手を拭いていると黒服が飲み物を運んでくる。ハイボールは薄かった。

その後、最初の女の子が現れるのだが、この子については詳細を述べない。なぜか?腋臭であったからだ。

腋臭というのは本人が気づかぬ場合も多いと聞く。この女もそうではなかったか。
女は席につくなり、私の膝の上にまたがり、だいたんおっぱいを顔面にぷにゅぷにゅしてきた。

それはまごうことなきおっぱいであり、十分にぷにゅぷにゅという擬音語を充足しうるぱいであった。
だが、しかし、幸か不幸か人間の知覚は多様である。無論、触覚だけではあらない。

私の嗅覚には、通常のぱいぱいは決して発しえない野獣的な芳香が流れ込んでいた。
私はたちまちせき込みそうになり、ぱいぱい(と、その延長上にあるであろう胴体と腕との悩ましき結合部)から距離をとり、うっすいハイボールをごくりごくりと流し込んだ。

私が杯をテーブルにおくと、娘はいたずらっぽい表情で(暗いからよく見えなかったけど)、ぱいぱい攻撃第2波を繰り出した。私の顔面は再びぷにゅの荒波に飲まれ、その刹那、砂嵐のような無慈悲な芳香(咆哮)が私を襲った。私は決死の覚悟で目の前にそびえる、ぱいという名の肉塊に顔をめり込ませ(鼻孔をふさいで)、それでもやおら流れ込む涙さえあふれそうな野獣の濃厚な香りの渦の中で、私は自分が血肉に餓えたいやしい野獣になった心地で、口から溢れる唾液もおかまいなしにぱい肉をふんがふんが貪った。そんな時、黒服がブースの傍らに現れ、娘の肩をとんとんと叩いた。娘は「せんきゅ~また来てね~」と言って、服のボタンをさっと占めて、宿命的な残り香だけを残してブースを去っていた。私は残りのハイボールを飲み干した。

奇跡はいつも悲劇の後に起こる。人間の歴史はそうやって紡がれてきた。

「はじめまして、マリアです」その優しい声は都会の薄汚れた雑居ビルの地下のセクキャバの隅の狭くてちゃっちい欲望渦巻くブースの中で福音の鐘のように響いた。

天使は制服姿で現れた。そう、ここはリアル制服セクキャバなのだ。しかも、これは私が以前ヤフオクで見て落札を逃した、関西某有名女子高の制服ではないか。

私はセクキャバの闇に浮かぶ神々しい制服姿を舐めるように眺めた後、一瞬瞳を閉じてやや上方に照準を定め、マリアと名乗るその娘のフェイスを拝んだ。

娘は決して美人ではなかった。ガッキーでは決してないし、吉岡里帆でもない。白石麻衣でもなければ、西野七瀬でもない。

その娘の瞳はとてもささやかなものだったし、目と鼻とアゴのバランスはおせじにもいいとはいえなかった。中学校だったら、彼女に心無いあだ名をつけるクソガキもいたかもしれない。

それにも関わらず、いや、そうであったからこそ、私の胸の中には強烈な郷愁と、下半身から断線された、胸のあたりの小ぶりな扉から10年に1度だけ機械仕掛けが作動してかわいらしい小鳥が飛び出てピヨッピィとでも鳴くかのような感情、つまりは一言”好き”という感情が、イエローストーンの間欠泉のごとく沸き上がった。

「好き」というのはきっと、私たちがこれまでに通り抜けてきた恋心の墓標たちが指し示す遠くて暗い夜の南極海の幻光のようなものなのだ。

それはまさに化学反応的であり、超新星爆発的であった。それは戸惑いであり、ひらめきであり、困惑であり、畏敬でもあった。

もし、そのバランスがよすぎれば、香椎由宇的であったとしたら、私の劣等感はすぐさま湿っぽい塹壕に逃げ込み、南極の氷河のごとき沈黙に沈んだかもしれない。

気づけば私は娘に、つまりはマリアに、夢中でキスしていた。

彼女に出会った瞬間、私の唇という独立機関が向かうべき世界の隙間はただそこに、マリアの唇にしかなかった。

私は暗闇の中でも、制服の上からでも明らかにたわわと見える、マリアのぱいには触れる気にもならなかった。

ずっと昔、まだひとつのキスが、世界のあらゆるキスでありえた時間に立ち戻って、私はマリアの細い腕をぎこちなくとって、彼女と唇を重ねた。マリアの小さな唇が開き、やさしいざらつきの舌が絡み、時折ぬくもりと呼ぶべき温度を含んだ吐息が漏れた。
私は薄めを開けると、マリアの小さくてまん丸の顔が見える。瞳はひっそりと閉じられ、愛らしいまつ毛が影を落としている。

愛しいと思った、女性とはなんてすばらしいんだろうって思った。キスとは唇を通じて心を温めあう行為なのだと知った。いや、思い出した。

マリアが愛しくてたまらなかった。私は名残惜しさを押して、そっと唇を離し、マリアに「好きだ、好きでたまらない」と言った。私は阿呆だった。この場で幽体離脱して(かつて練習したことがある)、ブースの上から私を眺めたら、あるいは、AbemaTVの下衆な企画でセクキャバに盗撮カメラが仕掛けられたりしたら、私は哀れみをたっぷりと含んだ笑いの対象でしかないだろう。

だが、もう私にとって、胸の衝動に従う術はそれしかなかった。ずっと下半身の衝動にしか従ってこなかったお前が何を言うのか!と私の下半身の主は抗議の声を上げていたかもしれぬ。

なぜ大人たちは、自己犠牲や献身によってのみ獲得される絆について語ることをためらうのだろう、と言ったのは宮崎駿ではなかったか。私ははじめてその意味を理解した。捧げることしかできないとき、私の両手には何もないとわかっていながらも空を目指さずにはいられない時が男にはあるのだ。

私はマリアにもう一度好きだと言い、子供の頃に貯金箱をひっくり返して100円玉を探したときのような、レゴのボックスをひっくり返して足りないピースを探したあの頃のように、言語野からぽいぽい言葉を引っ張り出して、好きに変わる言葉を探した。

何を言ったかなんて覚えてない、だけど、言葉を尽くした。自分の言葉の乏しさに絶望しながらも、それでも何かをこの場でこの人だけに伝えずにはいられなかった。

好きだと告げるのは自意識をかなぐりすてる行為だった。崖からなのか、平均台の上からなのか、程度の差はあれ、飛び降りるのに違いはない。骨も砕ければ血も流れる。だが、それはほとんど快感ですらあった。

「お時間ですが」と告げに来た黒服は、我々の状況を見て何かを察して去って言った(自動延長になった)。

もはや、何度好きだと告げたかわからない、どれだけキスしたかわからない。しかし、悲しみの涙と同じように、溢れる愛しさもとめどがなかった。

マリアは文字通り、聖母マリアのような微笑みで、そのすべてを受け入れた。
私の体はマリアを抱きながら小さく震えていた。私はずっと昔、運動会のフォークダンスで好きな女の子の手のひらに触れた瞬間、体全体が震えたのを思い出した。

マリアはそんな私の頭をやさしく撫で、小さく笑いながら「かわいい」とつぶやした。
私は、私は、それまでに私が侵してきた多くの間違い、傷つけてしまった人たち、思い出したくもない失敗、恥、自分を呪いたくなるような後悔、そういうものを全部、全部「許された」と思えた。私はもう泣きだしており、マリアのFカップはあろうおっぱいに赤子のように顔をうずめた。

マリアは私の頬にキスをして、制服の胸のボタンを外して胸を露わにした。マリアのおっぱいには小さなほくろが神秘的に連なり、まるで北斗七星のような形を描いていた。
幼い頃から夜空を見上げる度に探していた星たち。空に流れ星を求めた、かつての日々から遠く離れた都会のセクキャバの偽物の闇夜の中で、ついに私はそれを見つけたのだった。

私はそのままこの大地のベッドのようなおっぱいの上で、宮沢賢治がかつて見たであろう、美しい夜空の夢の彼方へと旅立ちたかった。

しかし、我々はあらゆる時間が金銭に換価される高度資本主義社会という砂漠の上に生きている。

死神のように我々の前に再び現れた黒服のお告げを、私は最後にもう一度だけ強くマリアに抱き着いた後、受け入れた。
荷物をとり、マリアに「ありがとう」とそっけなく言って席を立とうとした。
つい数分前まで己の魂と引き換えに近い形で「好き」という言葉を差し出していた私は、もはや彼女に捧げるべき言葉を持たなかった。

敗者は去るのみ。私が背を向けた刹那、マリアは私の背を引いた。
「やだ、入り口まで送りますよ?」と。